作家・英語教育研究家 晴山陽一オフィシャルサイト

アイディアは無限に浮かんでいる!

■言われたことしかできないタイプ
 私の好きな言葉にこういうのがある。
「パッとしない人間に2種類ある。言われたことができないタイプと、言われたことしかできないタイプだ」。
 言われたことができないというのは論外だが、「言われたことしかできないタイプ」とは、言われたことはやるが、その仕事の本当の意味がわかっていない人のことだ。ひとことで言えば、想像力とアイディアの欠如である。
 ある大学教授から、こんな例を聞かされたことがある。
 ある時、500人の聴衆を集めて講演会を開くことになり、アルバイトの学生に世話係を頼んだ。この学生に応募してきた500通の往復葉書を到着順に束ねて手渡し、ひとりひとりに受諾の返事を書くことと、当日どの人が来たかをチェックする作業を依頼した。
 当日、続々と押し寄せる参加者を見て、教授は真っ青になった。500人の参加者のひとりひとりを照合するのに手間取ったら、講演会を始める時刻が大幅に遅れてしまうと思ったのだ。こんなことのために並ばされた人もさぞ不愉快だろう。教授は学生に聞いた。「君、どうやって500人の名前を照合するんだ?」。これに対して学生は涼しい顔でこう答えたという。「大丈夫です。こうなることはわかっていたので、葉書を並べ直してあいうえお順のチェック用名簿を作成しておきましたから」と。
 教授はこの学生の機転にほとほと感心したという。もしも、学生が言われたことしかできないタイプの人間だっら、この講演会はスタート時点で大きくつまずき、不評を買っていたに違いない。この学生には、未来に起こることを如実に想像し、あらかじめそれに対処する能力があったのである。
 機転といえば、私の好きな言葉にこういうのもある。
「深刻をよそおうことはできるが、気の利いた人間をよそおうことはできない」。
 気の利いた(witty)人間をよそおうのは、気の利いた人間にしかできないことなのだ。

■パズルは泥臭いのがいい
 アイディアやひらめきをテーマにした本には、多数のパズルを出題して読者に「ひらめき体験」を提供するものが多い。しかし、クイズやパズルを数多く解いたからといって、たちまち有能な社員に変身できるとは思えない。世の中そんなに甘くないし単純でもない。
 しかし、ひとつだけ強く印象に残っている「ひらめきパズル」があるので、ちょっとここで紹介したいと思う。こんな問題である。

【問題】 部屋の中に電球が3つある。そのスイッチは廊下に3個あるが、どれがどの電球のスイッチかわからない。スイッチのある場所から部屋の中の電球は見えない。廊下には1回しか出られないとすると、どうすればどのスイッチがどの電球のものか判別することが可能か。

 しばらく正解を考えていただきたい。 

 このパズルは、普通に考えると絶対に解けない。1回廊下に出るだけで、3個のスイッチと電球の関係を判別することは数学的には不可能だからだ。
 すでにひらめいた方もおられると思うが、正解はこうである。
 まず、廊下に出て左端のスイッチをオンにして、3分経ったら消し、中央のスイッチをオンにして部屋の中に入っていく。明かりがついているのはもちろん中央のスイッチの電球である。消えている電球のうち、まだ暖かみが残っているのが左端、残りが右端のスイッチの電球である。
 言われてみれば「なーるほど」なのだが、ここには発想の転換が必要だ。数学的なクールな思考ではなく、もっと泥臭い、生身の体を伴う想像力のようなものが必要なのだ。また、「物事は時間をかけて存在する」というあたりまえのことを悟り直す素直さも大切である。消したばかりの電球は暖かい。言われれば何てことはないが、これを解決に結びつけるにはひらめきがいる。

■スポーツでのひらめき
 パズルでのひらめきの例をあげたが、「生身の体を伴う想像力」がひらめきを誘引した例が実際にスポーツの世界にある。
 ひとつは、走り高跳び。1968年まで走り高跳びの跳び方は、腹を下にする「ダイブ」と両足でバーをはさむようにして跳ぶ「はさみ跳び」しかなかった。しかし、アメリカのディック・フォスベリーは高校時代から背面跳びの手法を編み出し、密かに記録を伸ばしていった。当時、彼の背面跳びは人々の物笑いの種だったと記録されている。しかし、やがて彼は全米代表となり、メキシコ・オリンピックに出場して世界新記録で金メダルに輝いたのである。
 これとよく似た例がウィンタースポーツにもある。ある時、スキーのジャンプ競技に参加していたスウェーデンのヤン・ボークレブは、強風のためスキーが大きく開いたままで着地地点まで飛んでしまった。この無様なジャンプは減点の対象になったが、なぜか飛距離だけは伸びた。この偶然の出来事からスキーの開脚飛びが発見され、今ではすべての選手が当然のようにV字ジャンプを行なっている。
 このように、最初は「それはないだろう」というアイディアが、その世界を席巻してしまうことはままあることなのである。
 卑近な例として、私のささやかな発見の話をしよう。出版社に勤めていた頃、毎年社員の親睦のためのソフトボール大会が開かれた。私は、最初の何年かはヒットすら打てず、運動神経のなさを笑われていた。
 そこである年、野球部の連中の打撃をじっと観察したのである。彼らは、日ごろ鍛えた腕力で力いっぱいバットを振り、必ずボールに当て、ヒットを打っていた。しかし、私が気づいたのは、彼らがボールを当てる瞬間に非常ににぶい音がし、ボールは不気味に変形して重く、意外に飛距離が出ないことだった。これは、力みすぎていることと、両腕の力が相殺してバットの振りがにぶくなっているのが原因だと思われた。そこで、私はバットを速く振る方法を考え、右手だけでグリップを握り、左手は軽く添えるというテニスに近い打法を編み出した。
 この打法だと、振りが格段に速くなり、ボールに対してスムーズにバットが出るため、ピッチャーの投げる球をほとんど初球でジャストミートして、驚くほど飛距離が出ることがわかったのである。かくして、私は毎試合ホームランを量産し、あっという間に社内一の強打者となった。野球部の連中は、私の力みのないスウィングを見て、「なぜあのフォームで特大のホームランが打てるのか」と不思議がっていた。これが、スポーツは力ではなくアイディアであるということを私が発見した経緯である。

 おそらくアイディアは無限に浮かんでいて、発見されるのを待っている。人間のほうの常識が、その発見を邪魔しているのである。われわれは世界を見ているつもりだが、実は世界の0.1パーセントも見ていない。たとえば、人体を見る時、われわれが見ているのは表面の皮膚だけである。ボールを見ている時も表面だけであり、おそらく0.1パーセントの0.1パーセントも見ていないのだ。このことを発明王のエジソンは、次のように表現している。
「われわれは何事についても1パーセントの100万分の1も知らないのだ」と。

 

 (『知的生産のための すごい!仕事術』 第1章より)