作家・英語教育研究家 晴山陽一オフィシャルサイト

本で変わる、あなたの英語――ベストセラー英語本から見えてきたもの

日経ビジネスオンライン連載原稿 (5月30日~6月30日)

大きな反響を巻き起こした幻冬舎新書『英語ベストセラー本の研究』の刊行に合わせて、日経ビジネスオンラインで6回にわたって連載した原稿を、ここにまとめて公表します。

    第1回 ベストセラー英語本は語る
    第2回 すべての本が音読を勧めるのはなぜか?
    第3回 「英語で考える」ことは可能か?
    第4回 見えてきた究極の英語学習法
    第5回 英語教育60年の辿ったまわり道
    第6回 日本人英語のアキレス腱

 


■第1回 ベストセラー英語本は語る (5月30日配信)

 5月30日に、私の新しい著書、『英語ベストセラー本の研究』(幻冬舎新書)が刊行された。この本を書くために、私は戦後60年間のベストセラー英語本を10年刻みで選び出し、それらがなぜ何十万、何百万の読者に熱狂的に受け入れられたのかを分析した。扱った本は23冊だが、目を通した本はその倍以上にのぼる。
 23冊の中の主要なものを、10年刻みで2冊ずつ挙げると次のようになる。

(1) 1940年代――第一次英語ブームの時代
   『日米会話手帳』、『ジャック・アンド・ベティー』
(2) 1950年代――受験英語隆盛の時代
   『和文英訳の修業』、『英文法解説』
(3) 1960年代――第二次英語ブームの時代
   『英語に強くなる本』、『英語で考える本』
(4) 1970年代――逡巡の時代
   『英語の話しかた』、『なんで英語やるの?』
(5) 1980年代――混迷の時代
   『日本人の英語』、『起きてから寝るまで』シリーズ
(6) 1990年代――英語本ブームの時代
   『英語できますか?』、『これを英語で言えますか?』
(7) 2000年代――第三次英語ブームの時代
   『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』、『「超」英語法』

 この書籍リストを見て、「ああ、この本は読んだことがあるな」と懐かしく思う方もいらっしゃることだろう。このリストにはないが、1967年に刊行された『試験にでる英単語』は現在までに1500万部近くを売っており、実に国民の9人に1人がこの本を購入した計算になる。また、終戦のその日に企画された伝説の書『日米会話手帳』は、たったの3か月で実に360万部を売りつくしている。
 さて、『英語ベストセラー本の研究』には、過去の書物を掘り起こす以外に、もうひとつ別の執筆目的があった。それは、これら先人の労作から英語学習のヒントを拾い集め、「究極の英語学習法」とは何かを探り当てていくことであった。私は、その目的もある程度達することができたと思っている。
 この稿は、次の順番で話を進めていきたい。そして、私が探り当てた「究極の英語学習法」についても、第4回で(具体的なやり方も含めて)ご紹介したいと考えている。

 第1回 ベストセラー英語本は語る
 第2回 すべての本が音読を勧めるのはなぜか?
 第3回 「英語で考える」ことは可能か?
 第4回 見えてきた究極の英語学習法
 第5回 英語教育60年の辿ったまわり道
 第6回 日本人英語のアキレス腱

 では、第1回「ベストセラー英語本は語る」の話からスタートしよう。
 23冊の本を分析した結果、私が得た「英語学習のコツ」は、次の5項目にまとめることができる。

1.学習の抵抗感をなくす。
2.音読と暗誦を繰り返す。
3.リスニングを他の三技能に先んじる。
4.継続が不可欠。
5.まず磐石の基礎を築くことが肝要。

 こうして書くと、「それだけのことか」という印象を持たれるかもしれない。では、これらを逆の言い方にしてご覧に入れよう。

1.英語に抵抗感を持っていたら、学習は続かない。
2.体を使わない英語学習は身につかない。
3.音の伴わない英語は、使いものにならない。
4.一朝一夕に英語力がつくというのは幻想に過ぎない。
5.基礎を手抜きすると、どんなに勉強をしても砂上の楼閣になりかねない。

 いかがだろう、この否定形のほうが説得力を持つのではなかろうか。これにもう一項目付け加えるなら、「文法も大事だ!」であろう。同時通訳者として名高い國弘正雄氏や村松増美氏の言い方を踏襲すると、「きちんと文法を学ばないと、いくら話せるようになってもブロークンのまま」である。

 1の「学習の抵抗感をなくす」という項目について、若干補足しよう。
 最近、語学界では異色の存在である黒田龍之助氏の『語学はやり直せる!』(角川ワンテーマ21)という快著が出版された。黒田氏は、ふたつの大学の助教授を務めたのちフリーランスとなり、NHKテレビの「ロシア語会話」の講師として人気を集め、話題の書をいくつも世に送り出している人物である。同書の第4章「理想の語学教師を求めて」の中に、中学で習ったK先生のエピソードが出てくる。
 "体育会系肉体派"のK先生の英語の授業は実にユニークだった。まず、制限時間5分くらいの暗誦テストから始まる。前の授業で学習したところを、何も見ないでノートに書かせる。3個以上の間違いを犯すと、体罰を与える。と言っても「自分で自分の頭をゴチンとやれ!」といったユーモラスな罰だ。陰湿さはまったくなく、クラス中が笑いに包まれる。そのあとは、なんと「雑談コーナー」である。生徒にはこれが楽しくて仕方ない。授業時間が終わりに近づくと、「じゃ、今日やったところを次回までに暗誦!」と号令がかかって、授業終了。「今だったら保護者からクレームがつくのでは、と心配になる」と黒田氏は語る。しかし、「K先生に習うと英語力は間違いなくついた」というのだから、驚くほかない。なお、毎回宿題が出されるのだが、それは「その日にやったところを5回ずつノートに書いてくる」というものだった。予習は不要である。
 この授業のポイントは3点ある。

(1) 生徒の緊張感をほぐし、とにかく楽しい時間を過ごさせる。
(2) 前回やったところを暗誦(ノート書き)させる。
(3) その日にやったところを家で5回ノートに書かせる。

 これだけで英語力が伸びた、というのである。
 私の持論に、「できる教師は教えない。学ぶ機会を与えるだけ(A capable teacher does not teach. He simply provides opportunities to learn.)」というのがあるが、このK先生ほどこの教育理念を忠実に実行した先生はいないと思う。もちろん、雑談のあとに何かしらその日のレッスンをしていることは確かである。しかし、彼の授業でいちばん効果を上げているのはそこではない。生徒が自発的に(少なくとも自力で)5回ノートに書き、暗誦するということの繰り返し。この単純なサイクルによって、K先生は労せずして学習の成果を上げていったのである。
 このK先生のエピソードから、1.学習の抵抗感をなくす 2.音読と暗誦を繰り返す、の2項目の重要性が浮かび上がってくる。
 先に述べた5項目(あるいは文法の重要性も加えれば6項目)以外に、23冊の書物から得た先人の知恵は数え切れない。それらについては、以下に箇条書きで列記することにしたい。詳しくは拙著にて個別にご確認いただきたい。

・昔の人は英語をカタカナにするのがうまかった。
・『ジャック・アンド・ベティー』は英語だけで書かれていた。
・音読テキストと思えば分厚い参考書も読める。
・和文英訳の前に「和文和訳」しなくてはならない。
・日本にいながらにして「英語で考える」ことを可能にした人がいる。
・愚直な練習が底力の原動力となる。
・英文を理解(和訳)するのが最終目標ではない。理解ののち、音読を繰り返して英語を内在化させなければならない。
・理解するための「文法分析」は有効である。
・英語を日本語に訳さずに聞き、イメージを作ることが大事。
・英文は左から右へと流れのままに理解する。
・発音に日本人の訛りがあってもかまわない(あって当然)。
・英語の発音は呼吸法が違う。
・「名詞」と「a+名詞」は別の単語と理解する。
・かつて「グワン式」と呼ばれるメソッドが驚くべき成果を上げたことがある。
・英会話でいちばん多く使うのは「I'mで始まる文」である。
・教材はあれこれ手を出さず、ひとつをとことんやるとよい。
・「ひとりスピーキング」は効果が高い。
・英語は語順"命"の言語である。
・「英語で勉強したこと」は英語で考えざるを得ない。

 これらは、私が23冊の名著から得た知恵のほんの一部に過ぎない。優れた先人から英語学習法のエッセンスを学びたいと思う方は、『英語ベストセラー本の研究』で、23冊の全容をお確かめいただきたい。私が得た教訓は、優れた先人の知恵は、いまだにちっとも古びていない。それどころか、混迷をきわめる現在こそ、彼らの卓見に耳を澄ませるべきである、という一事であった。

 

■第2回 すべての本が音読を勧めるのはなぜか? (6月3日配信)

 前回お話ししたように、5月30日に、私の新しい著書『英語ベストセラー本の研究』(幻冬舎新書)が刊行された。この本を書くために、私は戦後60年間のベストセラー英語本を10年刻みで選び出し、それらがなぜ何十万、何百万の読者に熱狂的に受け入れられたのかを分析した。扱った本は23冊だが、目を通した本はその倍以上にのぼる。今回は、それらの本を通して最も人気の高い学習法である「音読」に焦点を当てて書いてみたい。

 今から40年近く前の1970年に、同時通訳者として名高い國弘正雄氏が『英語の話しかた』という本を著し、非常に骨太の内容にもかかわらず、75万部を越える大ベストセラーとなった。この本の中でいちばん注目を集めたのは、「只管(しかん)朗読」という國弘氏の造語だった。これは、道元の「只管打座」にヒントを得た言葉で、「ひたすら朗読(音読)する」という意味だ。彼がこの学習法を知ったのは、中学1年の時に習った英語の先生からだったという。「英語を習う一番よい方法は、中学1年のリーダー、さらに2年3年のリーダーを声に出して、繰り返し、繰り返し読むことである」と教えられたのである。

「当時の私は非常に純真な生徒でしたから木村先生のいわれることを実に愚直なまでに実行したのです。時あたかも戦争中で、今とちがってテレビもなければラジオ講座もない諸事不便な時代でしたが、幸い教科書だけはありました。そこで、これを声を出して繰り返し読んだものでした。おそらく1つのレッスンについて500回ないしは1000回も読んだだろうと思います」と國弘氏は語る。

 この超人的な教科書の音読が、のちに彼の英語を余人の及ばぬ域にまで高める素地となったのである。
 この「只管朗読」に対する反響はきわめて大きかった。『英語の話しかた』から29年経たのちに出された続編の『國弘流 英語の話しかた』では、この只管朗読に対する考察がさらに深
まり、英語学習書の白眉と言うにふさわしい書物になっている。
 『國弘流 英語の話しかた』の中で「只管朗読」の基本的なやり方を詳述している箇所を要約してみよう。音読が次第に深化(進化)していく様がよくわかる。

1.只管朗読の必要に目覚め、テキストを決める。
2.テープ(今ならCD)を聞き、テキストの意味を理解する。
3.単語レベルの発音をクリアする。
4.つっかえずに読めるようになる。
5.次第に構文的な切れ目がわかってくる。
6.日本語に頼らずに意味が文の先頭から自然にとれる。
7.イメージが生き生きと実感できる
8.朗読していて、自然さと楽しさが感じられる。
9.テキストの例文の応用可能性にどんどん気づく。
10.自分の英語力が広がっていく可能性を実感する。
 
 これは、やり方を述べているというより、國弘氏自身が体験したことをそのまま書いていると言ったほうがいいだろう。苦行として音読を続けていたのではなく、いかに音読を楽しんでいたかが伝わってくる。徹底した学習は、言い知れぬ喜びをもたらすものだ。
 彼は、暗記を目的として音読せよとは決して言わない。それと同様、今かかげた10項目も、目標として示しているのではなく、「100回、200回と音読を続けていくと、最後には必ずこのような境地に達するよ」といざなっているのである。昔の日本人が素読を通して漢文の素養を深め、やがて自分でも自由に文が書けるようになっていったプロセスとよく似ている。
 前回の稿の中で、先人から授かった知恵のひとつとして紹介した次の一文、「英文を理解(和訳)するのが最終目標ではない。理解の後、音読を繰り返して知識を内在化させなければならない」というのは、國弘氏から学んだレッスンだったのである。ひとことで言うなら、復習(音読)こそ真に力のつく学習なのであり、理解や分析は音読への助走に過ぎないということだ。言い方を変えれば、学習は予習なのであり、復習が学習のコア部分なのだ。これは、学習に関する「コペルニクス的転回」と言えるかもしれない。

 さて、國弘氏は1999年に『國弘流 英語の話しかた』を公にした翌年、音読用のテキストを自ら編んで世に問うている。それがベストセラーとなった『英会話・ぜったい・音読』である。同書の序文の中に、「音読」を理論的に掘り下げた文章があるので、ここに要点をまとめておきたい。これは、英語学習について考えるすべての人の確かな道しるべとなるだろう。

(1) 大脳の中には言語中枢があり、ふたつに分かれている。「ヴェルニッケ中枢」は、言語を受け身的に理解することを担当している。「ブローカ中枢」は、言語を能動的に使うことを担当している。
(2) 目から入った情報はヴェルニッケ中枢に送られて理解される。それを口に出して音声化しようとすると、情報はブローカ中枢に伝えられる。発せられた音声を自分の耳で聞き、再びヴェルニッケ中枢でその成否を理解する。
(3) 言語能力を蓄積していくには、この2つの中枢の連携を活性化させる必要がある。

(4) 2つの中枢間でinteraction(相互関連)を頻繁に引き起こしていけば、知識が肉体化され、受け身の知識だけでなく、能動的に使える知識となって身につく。これを知識の「内在化(internalize)」という。
(5) 母語を習得する場合は、この機能が無意識に働く。しかし、外国語を学ぶ時は、意識的にこの循環が行なわれる環境を作る必要がある。

 こうして、「ヴェルニッケ中枢」と「ブローカ中枢」を共に刺激する「音読」が、かけがえのない学習法であることが明らかになるのである。
 ところで、音読は、米国では必ずしも最良の学習法とは考えられていないようである。ひとりで行なう音読は、誤った発音を強化する危険性があるし、人間同士のコミュニケーションに比べると閉鎖的で、発展性のない学習法だからというのがその理由のようである(そもそも米国には生の英語が満ち満ちている)。しかし、最近はCDなどにより正しい発音を確認できるし、音読にはひとりで計画的に学習を進められる利点もある。
 さらに、國弘氏によれば、愚直に音読を繰り返すことにより、「日本語に頼らずに意味が文の先頭から自然にとれる」ようになり、やがて「例文の応用可能性にどんどん気づく」ようになるというのである。一見受動的に見える学習が、ある時を境に能動性(自由に使える状態)へと転化していく。昔から、名人の域に達した人は、このような泥臭い努力を地道にやり通した人物であることは、記憶しておいて損はないだろう。

 この音読という方法を最高・最強の英語学習法と断言する人は今も数多い。たとえば、カリスマ英語教師と呼ばれ、相次いでベストセラーを刊行している安河内哲也氏は、近著『できる人の英語勉強法』の中で、次のように音読を称えている。

「(予備校での)音読・直読という英語学習法との出会いは、それまで訳読中心の学習法しか知らなかった私には、青天の霹靂でした。音読・直読の学習法をスタートしたことで、私自身の英語力に大きな変化がおきました。「リーディング」と「ライティング」の力が飛躍的に伸びたのです」

 もうひとり、駿台予備学校の人気講師、大島保彦氏も自分の若い頃を振り返って、次のように書いておられる。

「ふと、あるとき、思いついた。学校の教科書の試験範囲の部分を音読してみることを。ただ闇雲に音読した。発音がいいかげんな単語は調べなおした。慣れてきたら教科書を伏せて口に出していってみた。新聞広告の裏が白紙のものをためておいて、そこに書き写してみた。最低100回はやってみた。それ以来、中間・期末試験で95点未満を取った記憶がない。その後、大学入学後もいろいろな語学に挑戦したが、いつも同じようにやってみた。うまくいった」(『駿台式!本当の勉強力』 講談社現代新書より)

 先ほど、「昔から、名人の域に達した人は、このような泥臭い努力を地道にやり通した人物である」と書いたが、この伝統は今もなおしっかりと生き続けているのである。
 理解するところで学習を止めている方は、そこをスタートラインにして、「体に落とし込む」ステップを付け加えてほしい。日本の伝統芸をぜひ英語学習にも活かしてほしいと思う。効果のほどは数多くの先人たちが保証している。

 

■第3回 「英語で考える」ことは可能か? (6月10日配信)

 私の新著『英語ベストセラー本の研究』(幻冬舎新書)をベースにして、英語の学習法について全6回の予定でお話しをさせていただいている。
 今回は、今からちょうど40年前の1968年に出版された松本亨著『英語で考える本』を起点にして、「英語で考える」というテーマについて書いていきたいと思う。
 私が新著を書くために読んだ40冊以上の書物の中から最もインパクトの大きかった2冊を選ぶとするなら、前回取り上げた國弘正雄著『國弘流 英語の話しかた』と、この『英語で考える本』が文
句なく双璧をなす。

 松本亨は英語教育界の巨星だった。その生涯を通じて「英語で考える」「英語の意味は音声にある」という2つの信条を守り通し、いささかも曲げることがなかった。特に「英語で考える」という主張に対しては、「日本語で考えることに慣れた日本人には、どだい不可能な理想論」と、これを疑問視する声が根強く、彼の一生はこのテーゼを身をもって実証することに費やされたと言っても過言ではない。
 今回、『英語ベストセラー本の研究』を書くために膨大な資料に目を通したわけだが、私が驚いたのは、松本の『英語で考える本』が出される21年も前に「英語で考える」という標語を高らかに掲げた文書があったという事実である。
 終戦後3年目の1947年に教育基本法が公布され、6・3・3・4制の学制が定められ、同年の4月から新制小・中学校(高校は翌年)が発足した。それに先立って『指導要領(試案)』があわただしく発表された。次にご紹介するのは、英語科のセクションの第1章、英語教育の「目標」の部分だが、ここに目を疑いたくなるような記述がある。まず、項目だけを列記すると......

1.英語で考える習慣を作ること。
2.英語の聴き方と話し方を学ぶこと。
3.英語の読み方と書き方を学ぶこと。
4.英語を話す国民について知ること、特にその風俗習慣および日常生活について知ること。

 これが英語教育の目標である。トップに「英語で考える習慣を作ること」が掲げられているのである(さらに「聴き方と話し方」が「読み方と書き方」に先んじている点も大いに注目に値する)。終戦直後のこの時期に、英語教育の第一目標に、さりげなく「英語で考える習慣を作ること」が挙げられていることに、私は驚きを禁じえない。
 この第1項の説明部分を見ると、そこには「英語で考えるという習慣が最初で最後の段階」とか「英語で考えることが最も自然で効果的な学習法である」と明記されている。
 しかし、のちに「英語で考えること」を「最も自然で効果的な学習法」とみなし、そのための膨大なテキストを作成して世に問うた松本亨は、ともすれば現実から遊離した理想論者とみなされ続けたのである。
 松本の略歴を見て感心するのは、彼の英語学習の道が決して平坦ではなかったこと、それにもかかわらず、ずば抜けた直観力で道を切り開いていったことである。そのことは、彼が中学で英語を学び始めて7年も経ったのちに、英語を一からやり直した勇気と真摯さによく表れている。話はこうである。
 その時、彼は明治学院大学の1年生だった。毎日のようにネイティブの教師たちの家に入り浸って英語に触れ、だいぶ自信をつけてきた矢先のある日のこと。彼は校庭で、アメリカ人教師が奥さんと早口で立ち話をしているのを耳にしたのだが、まったく聞き取ることができなかった。この時、松本は「本当の英語は、自分にはまだわからないのだ!」と非常なショックを受けたという。自分の学習法には何が欠けているのか、一晩眠らずに考えた末、到達した結論は次のようなものだった。

(1) 自分はこれまでアメリカ人の先生の言うことを聞いて、それを一度日本語に訳していた。だから、文が完全に聞き取れないと、意味が完全に取れないのである。
(2) 返事をする時は、まず頭の中で英文を組み立て、動詞の時制や名詞の単数・複数や冠詞の使い方や発音などを2、3秒で確認してから話す。これは大変な労力を伴う。

 このような反省を踏まえた上で、松本は「なんとか自由自在に英語を使うようになりたいものである。正しい英語が、自然に口から出てくるようにできないものだろうか」という強烈な願望を持つようになるのである。
 では、どうしたらいいのか?
 彼がとった方法は、大学への通学の道々、中学のリーダーをすべて暗記する、という方法だった。以下は『英語で考える本』の中の記述である。

「私は登校下校の長い道を乗物を最小限にちぢめて、歩きながらReaderの1と2をおぼえていった。噛みしめながら、うなづきながらおぼえていった。ついには、Readerの1の第1行目からReaderの2の最後の行まで全部理解しながら言えるようになった。そのとき私は、こういう発見をした。自分でいいたいことは、大体何んでもいえる。いいたいことが何んでもいえるということは、大ていのことは何でもthinkしthink outできることではないかと」

 この中学のリーダーを徹底して暗誦するという学習法は、はからずも中学時代の國弘正雄氏がとった方法とまったく同じである。
 こうして松本は、米国人の会話が聞き取れないという衝撃の体験をバネにして、7年目にして学習を振り出しに戻し、ついに「なんとか自由自在に英語を使う」という目的にたどり着いたのである。
 後年、松本はラジオ講座や自ら設立した英会話学校での教育を通じて「英語で考える」ための方法を説き、膨大なテキストを書き残した。
 彼は行動の人であった。『英語で考える本』は理念が先走って実証が足りないという批判を受ければ、すぐに『英語で考えるには ― そのヒケツと練習』を上梓して、世に問う。また全10巻
の『英作全集』をものして、「英語で考える」実例を豊富に世に提供するのである。松本の英作文の著作に対しては、一方の雄である國弘正雄氏が、次のように賛辞を送っている。

「問題数という点で現在一番多いのは、戦後、NHKのラジオ英会話講師を20数年にわたって担当された故・松本亨先生の『松本亨英作全集』のようです。一巻で800題、総計約8000題です。松本先生には他に『書く英語』が基礎・実用・応用編とありますから、個人として、約1万題ほどの和文英訳問題を市場に提供しているわけです。これは大変な数です。入試用の問題文にかなり紋切り型が多い中で、松本先生の問題文はまったく自然な日本語で、この点も特筆大書すべきでしょう」

 松本はたしかに自分の思いを語るに性急なところがあった。しかし、口先の人ではなかった。「英語で考える」という一事を広めるために、実に1万題の英作文問題を世に提供し続けたのである。これは、終戦時にアメリカで収容所生活まで体験し、日本語以上に英語がうまくなってしまった男の背負った宿命だったように、私には思えてならない。
 私は、今回のベストセラー英語本をたどり直す旅を続けながら、今こそ松本の英語教育にかけた情熱を思い出すべき時ではないか、との思いを強くした。
 次回は、國弘正雄氏の「只管朗読」と松本亨の「英語で考える」という2大テーゼを結びつけたところに見えてくる「究極の英語学習法」について筆を進めたいと思う。どうかご期待のほどを。

 

■第4回 見えてきた「究極の英語学習法」 (6月17日配信)

 私の新著『英語ベストセラー本の研究』(幻冬舎新書)をベースにして、英語の学習法について全6回の予定でお話をさせていただいている。
 『英語ベストセラー本の研究』には、2つの執筆目的があった。その第1は、戦後60年間のベストセラー英語本を10年刻みで選び出し、それらがなぜ多くの読者に受け入れられたのかを分析することであった。第2の目的は、これら先人の労作から英語学習のヒントを拾い集め、「究極の英語学習法」とは何かを探り当てていくことであった。今回は、そのようにして見えてきた「究極の英語学習法」をテーマに書くことにしたい。
 前回の末尾で、松本亨の「英語で考える」と國弘正雄氏の「只管朗読」という2大テーゼを結びつけたところに、「究極の英語学習法」が見えてくる、という予告を行なった。
 ちょっと復習すると、松本亨著『英語で考える本』(1968年)は、日本人の英語学習の究極目標は文字通り「英語で考える」ことであるという松本の信念に基づき、いかにすれば「英語で考える」ことが可能になるかを縷々述べた本である。一方、國弘正雄著『英語の話しかた』(1970年)は、世に「只管朗読」という言葉を広めたことで有名である。「只管朗読」とは、ひたすら音読を続けるという学習法で、國弘氏はこの方法を中学校の英語教師に勧められ、教科書の各レッスンを500回から1000回も愚直に音読したという。
 さて、私の探求の結果は、きわめて明快だ。
 もしも「英語で考える」ことと「ひたすら音読する」ことが、英語学習の双璧だとすれば、この両者を掛け合わせたらどのような学習法が考えられるだろう、と思ったのである。

 《英語で考える+音読》

 そんな学習法が、本当に可能なのだろうか。私は可能だと思う。
 たとえば、英語で九九を言ってみよう。テキストはいらない。頭をフル回転させれば、言うべきことは自然に湧き上がってくる。それをすかさず口に出して言うのである。これは、テキストに書かれた文字の音読ではない。「頭の中に書かれたテキスト」の音読である。さっそく「一の段」から、やってみよう。あえてテキストを文字にすると次のようになる。

1 times 1 is 1.
1 times 2 is 2.
1 times 3 is 3.
1 times 4 is 4.
1 times 5 is 5.
1 times 6 is 6.
1 times 7 is 7.
1 times 8 is 8.
1 times 9 is 9.
1 times 10 is 10.

 これを、二の段、三の段と進めて行って、最後の九の段まで口に出して言ってみてほしい。最初は慣れないのでつっかえつっかえかもしれないが、次第に慣れてスラスラ言えるようになるだろう。やってみるとわかるが、だんだん頭の中がカッカしてくる。これは、英語を使った頭のマッサージである。頭がぼんやりした時のリフレッシュ用にも使える。
 この《英語で考える+音読》エキササイズには、いろいろなバリエーションが考えられる。将来、それらを集大成した本を作りたいと思っている。
 ここでは、いくつかのバリエーションをご紹介することにしよう。素材には「1週間の7つの曜日」を用いることにする。一応テキストをお見せするが、すべて頭の中に入っている知識なので、2度目からは、目をつぶっても言えるはず。ということは、通勤途中でも、ちょっとした空き時間でも、風呂やトイレの中でもベッドの中でも反復復習できる。こうして英語で考え、英語を口に出す回路が少しずつ強化され、次第に英語を話すのが苦でなくなってくる。國弘氏にあやかって言うなら、愚直な練習を繰り返した者が、最も深く英語を体にしみ込ませ、最後には自由自在の応用力を身につけることができるのである。では、まず基本形をフルにお見せしよう。

 Monday is the first day of the week.
 Tuesday is the second day of the week.
 Wednesday is the third day of the week.
 Thursday is the forth day of the week.
 Friday is the fifth day of the week.
 Saturday is the sixth day of the week.
 Sunday is the last day of the week.

 内容的にはなんでもないが、MondayからSundayの発音は簡単ではないし、firstからlastの発音だって容易ではない。内容はやさしいが、これを空で暗誦しようとすれば、脳のいろいろな部分が刺激されるのである(その話は第2回でした)。
 この「曜日」を使った《英語で考える+音読》エキササイズには、次のようなバリエーションが考えられる。

(1) before を使ったセット

 Monday comes before Tuesday.
 Tuesday comes before Wednesday.(以下略)

(2) afterを使ったセット

 Monday comes after Sunday.
 Tuesday comes after Monday.(以下略)

 先ほども書いたように、このエキササイズはいつどこでもできる。タイムを計って、最初の1回と比べてどのくらい速度が増すか比較するのも一興(一驚)である。このようなやさしい素材を使って、英語で考えるクセをつけ、英語が口から出るのをスムーズにできるというのは、ちょっと驚きではないだろうか。
 多くの人が持つ英語への苦手感は、単に「英語を口にする回数が少ない」ことに起因している。要するに、英語を使う(英語の音声を発する)環境にないのである。
 「究極の英語学習法」などと言うと、いかにもものものしく聞こえるかもしれないが、ふたを開けてみれば、ご覧の通り、誰でも(どんなレベルの人でも)可能なエキササイズである。
 これでは題材が他愛なさすぎるという方には、アメリカ50州を素材にした次のようなエキササイズはいかがだろう。略称のアルファベット順で最初の10州の部分を文字にすると、こうなる。

 AK stands for Alaska. 「AKはアラスカの略称である(以下同様)」
 AL stands for Alabama.
 AR stands for Arkansas.
 AZ stands for Arizona.
 CA stands for California.
 CO stands for Colorado.
 CT stands for Connecticut.
 DE stands for Delaware.
 FL stands for Florida.
 GA stands for Georgia.

 このアメリカの州名で《英語で考える+音読》エキササイズを行なう場合は、AL,
AK, AR, AZ... のように略称の部分だけ見ながらフルセンテンスの音読をするとよい。こんな練習が、いつかビジネスで役に立つことだってあるかもしれない。ただし、アメリカの州名は意外に発音が難しいので、将来CD付きの本が出来上がったら、それも参考にしていただきたい。もちろん、辞書を使ってご自分で発音を確認できれば、それにこしたことはない。アメリカ50州の発音は、ちょっとしたビックリ箱である。
 結論的に言うと、《英語で考える+音読》エキササイズは、「ヴェルニッケ中枢」と「ブローカ中枢」を共に刺激する「音読」練習の極致と言える(これらの用語については第2回参照)。あえて私がこれを「究極の英語学習法」と名づけたゆえんである。
 さあ、あなたも2つの言語中枢をヒートアップする快楽に身を任せてほしい。再び言おう。素読以来の日本の伝統芸を、ぜひ英語学習にも活かしてほしいのである。
 次回は、「英語教育60年の辿ったまわり道」と題して、日本の英語教育史の盲点の部分に光を当てたいと思っている。どうかご期待いただきたい。

 

■第5回 英語教育60年の辿ったまわり道 (6月23日配信)

 私の新著『英語ベストセラー本の研究』(幻冬舎新書)をベースにして、英語の学習法について全6回の予定でお話をさせていただいている。
 5回目の今回は、戦後60年の英語教育が、いかに足踏みし、遠回りの道を歩んできたか、という話をしたい。
 すでに第3回の原稿の中で、終戦後3年目の1947年の春に、驚くべき内容の『指導要領(試案)』が発表された話をした。そこでは、英語教育の目標は次の4項に定められていた。

1.英語で考える習慣を作ること。
2.英語の聴き方と話し方を学ぶこと。
3.英語の読み方と書き方を学ぶこと。
4.英語を話す国民について知ること、特にその風俗習慣および日常生活について知ること。

 目標のトップに「英語で考える習慣を作ること」が挙げられているのも驚異だし、「聴き方と話し方」が「読み方と書き方」に先んじている点も注目に値する。少し長い引用となって恐縮だが、第1目標「英語で考える習慣を作る」の説明部分も見てみたい。

「英語を学ぶということは、できるだけ多くの単語を暗記することではなくて、われわれの心を、生まれてこのかた英語を話す人々の心と同じように働かせることである。この習慣(habit)を作ることが英語を学ぶ上の最初にして最後の段階である」

 ここでは、英語学習の目的は、単に言葉を覚えることではなく、ネイティブの考え方を学ぶことであることが示されている。これに続き、こんなことが書かれている。

「英語で考えることと翻訳することとを比較してみよう。前者は英語をいかに用いるかということを目的としているが、後者は古語を学ぶときのように、言語材料を覚えることに重点を置いている。前者は聴き方にも、話し方にも、読み方にも、書き方にも注意しながら英語を生きたことばとして学ぶのに反して、後者は書かれた英語の意味をとることにのみとらわれている。ここにおいて、英語で考えることが、英語を学ぶ最も自然な最も効果的な方法であることが明らかである」

 ここで注目すべきは、英語を翻訳することは、古語を学ぶようなものだという主張である。たしかに「古語を学ぶ」のは、決して古語を使えるようになるためではない。以後の英語教育が「書かれた英語の理解」という方向に突き進んでいくことを予見したような記述に、私は驚くのである。
 これらの目標に対して、やがて日本の英語教育界は、「日本人が英語で考えるなど、どだい不可能な目標である」と根強い抵抗を示すようになっていく。しかし、頭から拒絶する前に「英語で考えるには、具体的にはどうしたらよいのか」を真剣に(制度的にではなく原理的に)探求する態度をとれば、その後の英語教育の混乱と低迷はずいぶん回避できたのではないだろうか。それほど、この試案の文章は理想と熱意にあふれているのである。
 私には、英語教育の目標について、実は60年前に立派な模範解答が示されており、以後の英語教育の迷走ぶりは、まるで駄々っ子のようにこの模範解答に対し逡巡し抵抗を繰り返してきた歴史のように思えてならない。試案第5章の、学級運営に関する次の文章を読む時、このような思いをさらに強くする。

「......このために、1学級の生徒数が30名以上になることは望ましくない。聴き方と話し方とが英語の第一次の技能であるから、生徒は、特に初期の課程においては、教師の話し方になれなければならない。こう考えてくると、中学校においては、1人の教師が1学級に少なくとも1年間専属することが望ましい。(中略)英語の学習においては、一時に多くを学ぶよりも、少しずつ規則正しく学ぶ方が効果がある。それで毎日1時間1週6時間が英語学習の理想的な時数であり、1週4時間以下では効果が極めて減る」

 ここでは1学級の生徒数は30人未満が望ましいこと、英語の授業時間は毎日1時間ずつ週6時間が至当であることが述べられている。のちに文部省(当時)自身が中学の英語の授業時間を週3時間とする指導要領を発表したのは、この試案が書かれたちょうど30年後の1977年のことだった。その後の「ゆとりの英語教育」の低迷ぶりは、あらためて説明するまでもないだろう。(なお、上記の試案の引用は、『ジャック・アンド・ベティー』の執筆者の1人である、稲村松雄著『教科書中心昭和英語教育史』に拠っている。)

 日本の英語教育界の迷走ぶりは、具体的な教育方法についても見て取れる。ひとつ例を示そう。
 1960年代に一世を風靡した『アメリカ口語教本』は、たちまち系統的に英会話を学ぼうとする人々のバイブルとなり、現在までにシリーズ総計で実に500万部を超える大ベストセラーとなっている。このシリーズの学習の根幹は、膨大な量の「パターン・プラクティス」である。どういう練習かと言うと、たとえば......
 Do you want to swim this afternoon? / No, thank you. I have to work this
afternoon.
 というモデル対話文の swim の部分をgo to the movies / go to the beach......などと10通りに言い換え、答えの文の work の部分もstudy English / work at my father's store......
などと10通りに言い換えていく練習である。
 言い換えを10通りも練習すると、この会話パターンが完全に身につくという仕掛けになっている。組み合わせ方によっては、100通りまで可能なのだ。なんと言っても練習量が尋常ではないので、英語の「口慣らし練習」にはこれ以上の教本はない。いまだに皆無なのである。
 このパターン・プラクティスは、当時中学校の授業にも熱狂的に採用され、やがてブームが去ると、あっという間に顧みられなくなった。「このような機械的な練習は非人間的であり、言語の本質から外れた訓練法だ」というのが理由だった。
 こうして、パターン・プラクティスは、やがて識者たちから悪しき学習法の代名詞のように言われるようになり、教室から姿を消した。しかし、『アメリカ口語教本』はそんなこととは関係なしに連綿と読まれ続け、多くの英語の達人を生み出していったのである。
 このパターン・プラクティスの件は、熱しやすく冷めやすい日本の英語教育界の体質を象徴する事例と言える。同様の例として、最近のコミュニケーション重視の指導法が挙げられよう。新時代を画する指導法としてコミュニカティブ・アプローチが華々しく迎えられたと思ったら、早くも文法軽視の学習法として目の敵にされているのだ。このように、何か新しい学習法がアメリカあたりから伝わると「われもわれも」と群がりやがて去っていく。戦後60年の英語教育の歴史はこのようなことの繰り返しだったように思う。
 しかし、しっかりした指導者がいて熱意に燃える生徒がいる限り、『アメリカ口語教本』がいい例だが、成果を上げる人はたわわな実りを享受しているのである。今後もそれは変わらないと思う。
 1974年の英語教育大論争の「実用英語vs.教養英語」といい、昨今の「コミュニケーション重視vs.文法重視」といい、この分野の論争が、えてして単純な「白黒争い」に堕してしまうのは悲しむべきことである。なぜ、文法を軽視せずにコミュニケーション・スキルを上げる方法が議論されないのか、不思議でならない。逆の言い方をすれば、「文法+会話」は最強のトレーニングとなりうると思う。
 最近、ある識者(大学教授)が「餅は餅屋。英語教育を今ひとたび、その道のプロに任せよ」と書いているのを目にした。しかし、専門家が集まれば、諸説紛々の混乱状態に陥ることは、繰り返される英語教育論争の歴史を見れば明らかである。
 私は、世間に議論を吹っかける前に、まず専門家同士でよく話し合ってもらいたいと思う。口角泡を飛ばして議論した後、結論をわかりやすく説明してもらえば、おおかたの俗説は鳴りをひそめると思うが、いかがなものであろう。

 

■第6回 日本人英語のアキレス腱 (6月30日配信)

 私の新著『英語ベストセラー本の研究』(幻冬舎新書)をベースにして、英語の学習法についてお話をさせていただいている。最終回の今回は、「日本人英語のアキレス腱」と題して、日本人英語の代表的な弱点をふたつ取り上げてお話ししたい。
 話の順番としては、(1) 日本人発音でかまわない!  (2) 冠詞は英語力のリトマス試験紙、の順で進めていきたいと思う。

(1) 日本人発音でかまわない!

 第1回の稿の中で、『英語ベストセラー本の研究』の執筆を通して先人から得た知恵を20近く列挙したが、そのひとつに、次の一文があった。

「発音に日本人の訛りがあってもかまわない(あって当然)」

 もちろん発音はよいに越したことはない。それはそうなのだが、では、発音が不得意な人は英語を使えないかと言うと、案外そうでもないのだ。まずはそんな話から始めたい。
 通常の日本人の発音にはいくつかの特徴がある。1単語ずつ切って読むこと、緩急のリズムがなく一本調子なこと、抑揚がないことなどだ。その結果、日本人の発音はどうしても平板に聞こえてしまう。
 また、子音の発音が弱いため、たとえば「フォレスト出版」が「ホレスト出版」のように聞こえたりする。実際、日本人の多くは、「アルミホイル」が本当は「アルミフォイル」であることにすら気づいていない。
 この日本人発音を矯正するのは非常に困難で、その主な原因は、①アルミホイルに代表されるような「カタカナ英語」が本物の英語の前に立ちはだかっていること、②日本語は英語とは反対に母音が強く子音が付属的に発音される言語であること、③しかも母音の種類が英語のほうが何倍も多いこと、④日本語は高低アクセント、英語は強弱アクセントであること、⑤英語の綴りを見てもなかなか正しい発音がわからないこと、などが考えられる。
 では、この抜き差しならぬ日本人発音は、英語を話す上で、はたして致命的な欠陥なのだろうか。私の友人の英国人作家、クリストファー・ベルトン氏は、会うたびに「日本人は発音のことをそれほど気にすることはありません」と力説する。彼は、著書でも同じ趣旨の発言をしているので、その部分を引用してみよう。

「発音はおそらく英語を話す上で最も重要度の低い事柄でしょう。英語が上達すれば、発音は自然とよくなるものです。世界ではありとあらゆる発音の英語が話されていることを思い出してください。どの発音がほかより優れているとかいないとか言うことはできません。発音に力を入れるのは、完璧を目指すときだけのことです。(中略)日本人なまりの英語でかまわないのです。プライドをもってそれを使いましょう」(『英会話の勉強の仕方』より)

 大阪大学の日野信行氏は、英語圏以外も含めた広い意味での国際社会において、日本人英語はむしろ非常に聞き取りやすい英語であると主張しておられる。日野氏は、ネイティブ並みの発音ではなくても内容のある、たとえば國弘正雄氏の英語を高く評価して、こう書いておられる。

「私は......國弘先生の英語の発音をモデルとして学生に勧めています。國弘先生の英語の発音はかなり日本的(これは国際英語の立場からすればほめことば)でありますが、その通じやすさすなわちコミュニケーション的有効性は、先生の幅広い国際的な活動を通じて立証されているからです」(『トーフルで650点』より)

 私も、日本人が英米人そっくりの発音を真似ることには懐疑的である。昨年ヨーロッパでオランダ人やドイツ人の話すニュートラルな英語を耳にして、ますますその思いを強くした。アメリカ英語もイギリス英語もなまっている、というのが私の実感だった。
 ただし、英語ネイティブの発音の特徴を知っておくことは意味があると思う。なぜなら、アメリカ英語を例にとるなら、リエゾン(くっつき音)や、フラップ/t/(betterを「ベダ」「ベラ」などと発音する)などの発音の特徴を知っておくことはリスニング上きわめて有効だからである。アメリカ発音の特徴を理解するためには、たとえば『英語舌のつくり方』(野中泉著)などの入門書をお勧めしたい。
 結論的に言うと、①発音をネイティブ並みにする必要はない(そもそも何国人を基準とするのかも不明)、②しかし、ネイティブの言うことを聞き取るためには彼らの発音の特徴(クセ)を知ることは有効である、ということになろうか。
 では、話題を2番目の冠詞の話に移す。

(2) 冠詞は英語力のリトマス試験紙

 日本人英語の(文法上の)弱点としてよく挙げられるのは、冠詞と前置詞である。これらを誤りなく使いこなすには、ネイティブ級の英語センスが必要だ。國弘正雄氏も名著『國弘式 英語の話しかた』の中でこう述懐している。

「お前の発音は日本人のものだと言われても、痛くもかゆくもありませんが、仮にお前の英語には冠詞や前置詞の間違いが山ほどあると指摘されたら、それは私にとって屈辱以外の何物でもありません」と。

 英語にとって冠詞がいかに重要かは、そもそも冠詞を持たない日本語の話者にはなかなかピンとこない。この点を、一度読んだら忘れられないほど印象的な例文を使って訴えかけたのが、マーク・ピーターセン氏のベストセラー『日本人の英語』だった。
 この本は、ひとことで言うと「英語で考える」というのはどういうことなのかを、日本語で岩波新書が書けるほど日本語に堪能なアメリカ人の著者が、わかりやすく系統だって説明した書物であり、これが面白くないわけがない。そういう本である。冒頭の不定冠詞に関するエピソードで、われわれの目は早くも釘付けになる。

「先日、アメリカに留学している日本人の友だちから手紙がきたが、その中に次の文章がいきなり出てきた。Last night, I ate a chicken in the backyard.(昨夜、鶏を1羽[捕まえて、そのまま]裏庭で食べ[てしまっ]た。)」

 この文から英語のネイティブ・スピーカーがとっさに思い浮かべるイメージは、「夜が更けて暗くなってきた裏庭で、友だちが血と羽だらけの口元に微笑を浮かべながら、ふくらんだ腹を満足そうに撫でている」という情景だというのである。すべては不定冠詞1個のなせる業である。
 正しくは、I ate chicken in the backyard. と不定冠詞を省くだけでいいわけだが、このたった1文字の差は、われわれ日本人には想像が及ばないほど大きい(a chickenは「鶏丸ごと1羽」、無冠詞のchicken は「鶏肉」)。
 冠詞の使い方ひとつで、「英語で考えている」か否かが一瞬で露呈してしまうのである。しかし、われわれには、名詞の前にくっつける小さな単語が世界をひっくり返すほどの起爆力を秘めているという感覚は、悲しいかな全くない。
 ピーターセン氏は、名詞の前に a を付けるのではない、もしも「付ける」という言葉を使うなら、a に名詞を付けるのだ、とまさに「目からウロコ」の説明をする。
 では、冠詞ひとつで文意がどれくらい違ってしまうかを、『日本人の英語』第5章の次の英文をもとにして確かめてみよう。ふたつの英文は「aとthe」の使い方が逆である。それは、どのような意味の違い(=世界の違い)をもたらすのだろう。

(1) In April, I introduced the coach of my tennis club to an ex-wife of my brother,
and by June the two were already married.

(2) In April, I introduced a coach of my tennis club to the ex-wife of my brother,
and by June the two were already married.

 たとえこの2文を正しく和訳しても、ふたつの世界の違いは表に出てこない。ピーターセン氏の用意した和訳は以下の通りである。「4月に、私のテニス・クラブのコーチを、弟の離婚した妻に紹介したが、6月になったら、2人はもう結婚していた」。
 しかし、ふたつの英文の「住んでいる世界」はまったく別の"パラレル・ワールド"である。世界(1)では、私のテニス・クラブのコーチは1人しかいない(だから the coach)が、弟の離婚した妻は2人以上いる(そのうちの1人だから an ex-wife)。
 これに対し、世界(2)では、コーチは2人以上いて(そのうちの1人だから a coach)、弟の別れた妻は1人しかいない(だから the ex-wife)。
 つまり、ざっと訳してしまえば同じだが、含意する世界は全く違うということだ。換言すれば、単なる「和訳」では、これらの英文が前提としている世界を描き分けることはできない。「和訳」というものは、可能な多くの事例の最大公約数を表すことしかできないのである。
 日本語が表す世界は、ある部分(特定か不特定か、単数か複数か)がピンボケした世界である。英語が表す世界は、その部分が鮮明に映し出された世界である。だから、「英語で考える」というのは、住む世界を変えるということなのだ。
 『日本人の英語』は、日本人にとって「禁断の木の実」だったと言えるかもしれない。われわれはこの本によって、この世はたくさんの"パラレル・ワールド"から成っていることを思い知らされたのである。その意味で、同書は最初からベストセラーとなることを運命づけられた書物であったとも言えるだろう。

 「日本人英語のアキレス腱」について書き出せば切りがないが、この稿はここで置くことにする。ここで扱えなかった点については、『英語ベストセラー本の研究』をお読みいただくほかない。
 これで全6回にわたる連載を閉じることにする。ここまでフォローしていただいた皆さんに心からお礼を申し上げたい。(了)