作家・英語教育研究家 晴山陽一オフィシャルサイト

「ひくざん」はきらいだ!

■「ひくざん」はきらいだ!

 今はドイツに留学中の次男が、まだ4つくらいの頃のこと。一緒にバスに乗っていると、停留所で女の人が乗ってきました。その人を見るなり、次男は大きな声でこう叫んだのです。「ねえ父さん、あの人なんであんなに太ってるの?」 この時は本当に参りました(でも、子供の無邪気さに感心したのも事実です)。
 彼にはもうひとつ忘れられない思い出があります。小学校に上がった頃、私は彼を膝の上に乗せて、引き算を教えようとしていました。
 「お皿の上におまんじゅうが5個ありました。すると、ゲンちゃんが来て2個持っていきました。それからヒトミちゃんが来て1個持っていきました。さあ、お皿の上には何個おまんじゅうが残っているでしょう?」
 ゲンちゃん、ヒトミちゃんというのは、いずれも近所の仲良しの名前です。さて、この問題に対して、まだ学校で引き算を習っていない子供がどのような反応を示すだろうと、興味津々で次男の顔をのぞき込むと......。
 彼は大きな目を真っ赤にはらして、涙をポロポロ流しています。ここらへんの素早さは天下一品です。「どうしたんだ?」と聞くと、「そんなに持ってっちゃ、やだ!」と言ってわんわん泣くのです。それ以来、私はこの子に引き算などさせるのは何かもったいない気がして、ついぞ教えるのはやめてしまいました。子供のほうも、「ひくざんはきらいだ!」とか言って、二度ととりあってくれません。大人が教え込もうとする引き算が、子供にとっては「ひくざん」だったというわけです。

■わがままに学ぼう
 教える側の論理があるように、教わる側にも論理があり、感情があります。それを無視して、誰にでも同じ教え方が通用するかと言えば、それは無理な注文なのです。教えられる側の心情について、こんなユニークなエピソードもあります。
 これはある高名なドイツ語学者から直接聞いた話です。彼が中国のドイツ語教育の実態を視察に行った時のこと。初等クラスの授業を参観したのですが、ドイツ語の勉強を始めていくらもたたない生徒たちが、よどみなくドイツ語を話すのに驚いたそうです。やがて、教師がひとりひとりに役割を与えて会話練習を始めました。すると、さっきまで上手に話していた女性の生徒が、急に黙ってひとことも喋らない。教師がわけを尋ねると、その学生は、「私は女性ですから、トムの役はゼッタイにできません」と言って引きません。とうとう教師が根負けして、その練習が終わるまでその生徒は参加しなかった、というのです。これは、日本からわざわざ授業を見に行った視察団には非常に印象的な出来事だったようです。
 生徒も人格を持っている。単なる口頭練習ひとつでも、そのことを主張して譲らない生徒がいたのです。彼女にとって、オウムになって口を動かすのはゴメンだったのです。
 私は教わる側の論理や心情は、とても大事だと思います。「教わる」のはあくまで彼らのほうだからです。フタが閉まっていたら、容器にものが注げないのと同じです。

■「教える側」ももっと柔軟に
 教える側にも柔軟性が必要です。世の中には、「自分がうまくいったから」という理由だけで、たったひとつの学習法を生徒や読者に押し付ける先生がたくさんいます。しかし、よくよく調べてみると、先生自身はもっといろいろな学習を並行して進めており、その総合結果として実力をつけたケースがほとんどなのです。
 たとえば、音声教材を聞く時に、スクリプト(原稿)を見ることを禁じる先生がいます。たしかにそのほうが耳を鍛える効果はあるかもしれません。しかし、スクリプトを見ずにひたすら耳だけを酷使すると、とても疲れます。集中力が続かないのです。それくらいなら、スクリプトを見てもいいから、興味の続く限り聞き続けたり、何度も聞いて、やがてスクリプトがいらないレベルまでパワーアップする方法だってありそうです。
 「こうしなさい、ただし、こうはするな」という教え方がいいのか、自分でフィードバックしながら、いちばん長続きするやり方を見つけさせるやり方がいいのか。
 私は長く興味を持って続けられる学習のほうがいいと思います。なぜなら、多くの人は単調で疲れる学習を続けてまで語学を勉強するほどの高いモチベーションを持ち合わせていないからです。日本人の英語力が上がらない理由のひとつは、自分の感性やレベルに合わない勉強を無理強いされて自信とやる気を失ってしまうからだと思いますが、いかがでしょう。